論考「I’d rather read the prompt(むしろプロンプトを読みたい)」は、その核心において、機械によって形作られた文章に対して人間の声を擁護するものだ。多くの学生の成果物を見てきたという筆者は、大規模言語モデルの出力は冗長で、反復が多く、極端にありきたりになりがちだと論じる。その結果、筆者の見方では、ほとんど何も語っていないのに洗練されているように聞こえる文章が生まれる。

出発点は教室での採点だ。筆者は、ChatGPTまたは同様のモデルからコピーしたように見える解答に遭遇した経験を記している。箇条書きが多用され、説明過多で、課題のプロンプトそのものを妙に熱心に繰り返す解答だ。その文体は今や日常的に見抜けるほど特徴的になっているものの、すべての事例で正式な不正の告発を正当化できるほど明確ではないと、この論考は主張する。

この文章は、学業上の不正だけに焦点を当てるのではなく、独創性を支持する、より広範な議論を展開している。筆者は、学生だけを対象に書いているのではなく、作品が予測可能な機械の声へと平板化されてしまったブロガー、コメント投稿者、研究者にも向けて書いているという。中心的な主張は、モデルが体裁よく整えた出力よりも、人自身の考えの方が興味深く、価値が高いというものだ。

記事はまた、人々が機械生成の文章へと傾いていった可能性のある理由も示している。教室では、一部の学生が課題を考える機会ではなく、乗り越えるべき障害と見なしているかもしれない。ほかの場面では、より有能に見せたい、労力を減らしたい、あるいは中身より量を評価する期待に応えたいという理由でAIを使うことがあり得る。この論考は、そうした動機を否定してはいない。それらが文章の質を悪化させると論じている。

際立つのは、現在では機械による文章の兆候となっている修辞上の癖に対する筆者の軽蔑だ。プロンプトを繰り返すことへの固執、整然とした箇条書きへの執着、何かを伝えるのではなく、関連性を証明しようとしているかのような書き手の姿勢である。その結果、技術的には十分でも、感情的には死んだ文章が生まれる。

筆者は、この問題を単なる道徳上の問題ではなく、表現上の問題として慎重に位置付けている。懸念は、AIが不正行為に利用され得るということだけではない。言葉を委ねることは、文章を読む価値のあるものにする、まさにその要素を手放すことだという。それは、ある人がリアルタイムで思考する際の固有性である。

だからこそ、この論考の題名は挑発として響く。筆者は、プロンプトに対するモデル生成の回答を読むくらいなら、プロンプトそのものを読みたいという。筆者の見方では、粗削りな人間の文章でさえ、役に立つように聞こえようとするシステムの滑らかな出力より多くの情報を伝え得る。記事の主張は、反テクノロジーというより反代替だ。目的が創造的な表現であるなら、最終的な文章にはその人自身が見え続けるべきだというのである。